秋津野の里〜常しらぬ人国山の秋津野の

 上秋津は、田辺市のほぼ中央に位置し、標高606メートルの高尾山のふもとに広がる地域である。面積は12.97平方キロメートル。世帯数約1,100戸あまり、人口は3,300人を超えた。混住化の波にいち早く洗われた農村であります。上秋津村という名前は、江戸時代にすでに記述があり、いまのような地域のすがたが早い時期にほぼできあがっていたとみられます。
 1956年(昭和31年 )、上秋津村は「昭和の合併」と呼ばれる旧村合併で牟婁町に編入されるが、その後、1964年(昭和39年)に田辺市に、そして平成の大合併で近畿で一番広い市町村田辺市の一地域となりました。
 上秋津を貫く右会津川。 川の流れに沿うように走るのは、県道 田辺龍神線(県道29号)です。秋津川の集落を抜けて南部川村との境界の峠を越え、虎ヶ峯を経て、龍神村にと通じます。田辺の町と日高郡の奥深い山のなかの村々をむすぶ道であります。その道は龍神村から真言密教の聖地高野山とをつなぎます。
 上秋津の歴史は、日高地方との結びつきも深い。「虎ヶ峯越え」と呼ばれる道は山の中腹を縫うように走り、いまでこそ整備が進み車の往き来が便利になったが、1970年代後半はまだ道幅が狭いうえに大小のカーブが連続する、険しい道でありました。なかでも 南部川村名之内地内(秋津川大沢おおう線)は最後まで残った難所で、1996年(平成8年)11月にようやく車が対向できる2車線道路となりました。この開通で、上秋津から日本3大美人のゆで知られる龍神温泉までは約1時間、高野山までは約2時間あまりでむすばれることになりました。
 熊野詣道の要ルート中辺路街道は、現在の秋津町、上秋津の下流1.5キロメートルほどから下三栖地域に入り、三栖・八上の両王子を経て富田川に出たあと熊野本宮をめざす。上秋津からは山越えに下三栖にくだり中辺路街道にまじわる道がある。
 日高と熊野地方の「山村文化と田辺市街地の都市文化をつなぐように立地する、視界の開かれた農村文化圏」、すなわち町と山村 の交流の出入り口にあたり、ひとやモノ、情報が行き交ったところが、上秋津でありました。  

全国から注目されるようになった〜地域づくりで天皇杯を受賞

 秋津野塾が第35回農林水産祭表彰・村づくり部門で、天皇杯を受賞したのは1996 年(平成8年)のことでした。天皇杯の受賞は和歌山県では例がなく、近畿地方でも初めての “快挙”で「無名の農村」にすぎなかった上秋津は、その日から一躍、 地域づくりで注目されることになりました。先人の苦労が認められ、地域全体でいただいた賞でした。 地域の人が土地にたいする自信と誇りをもつようになってきました。
   上秋津も、平成に入る頃から人口が増え始め、町内会を中心におこなってきたそれまでの方法では十分対応できないことに気づき、そこで各種団体に呼びかけて、1994年(平成6年) に秋津野塾を立ちあげました。
 今日では、「何か事業を行 うというときに、 一声かければ、100人くらいのひとがすぐに寄って来て、準備や進行にとりかかる。スムーズにやっていけるのです、これはすごいことだと思うのです。どこにでも自慢できることです」。
 秋津野塾の事務局がある農村環境改善センター。正面玄関前に据えられた御影石の石碑に、「豊かなむらづくり秋津野塾天皇杯受賞記念碑 平成8年11月23日」と刻まれ住民たちの地域づくりを見守っています。
 秋津野塾を中心とした地域づくりが始まって2009年でちょうど15年。受賞は、どこにでもある “むら” のひとたちに自信を与え、やる気を育んだ。賛同するひとが増え、そう したなかからいくつもの地域づくりの芽が生まれ、 育ってきました。 地域社会は、結局はそこに住む住民一人ひとりがつくりあげていくのだということを気づかせる好機になった。上秋津の地域づくりは、天皇杯受賞の日から、次のステージに向かっての取り組みが本格的にスタートしました。


都会にはない香り高い農村文化社会の実現を〜秋津野塾

  「都会にはない香り高い農村文化社会」を実現し、「活力とうるおいのある郷土」を作ろう。そうした理念と目標を掲げて、1994年9月、秋津野塾は設立されました。表をみていただくとわかりますが、どこの地域にでもある町内会、上秋津女性の会、老人会、公民館、消防団、小中学校の育友会・PTA、商工会、上秋
24団体が加盟しています。そして、 11の区と55班が参画する。つまり地域に あるすべての団体が名前を連ね、タテ・ヨコに統合された組織が秋津野塾なのである。これが最大の特色だ。
 秋津野塾は、「地域づくり塾」で ある。環境、健康、 福祉、教育、 防災、農業、 地域社会には、いろいろな 課題があり、そうした課題について、住民がみずから考えてひとつひとつ解決し、快適で安全で、健康に安心して暮らせる、 生き生きした地域コ ミュニティを作 っていくことを目的としています。
 秋津野塾のもうひとつの特色は、「地区全住民の幅広い合意形成」をはかっていく場である、ということであります。上秋津では、塾が結成される以前から、むらづくり活動を展開してきた。何か事業をおこなう、生活課題の解決に取り組む、そういうときは、 そのつど組織をつくって話し合い、ものごとを決めてきた。
 地域における問題は、 年々多様化し、 複雑化する傾向 がある。また、 新しい住民の増加は、それだけいろいろな価値観を有するひとたちが、同じ地域 内に暮らすことになる。多くの住民 の幅広い合意を得ながら、地域づくりを総合的に有機的、機動的に進めていくには、多くの団体の意思が反映する組織が必要だ、と秋津野塾は考えたのである。端的に言えば 、“場当たり的”に陥りやすい、従来型の「決定システム」からの脱却を意味しました。
 地域が取り組む事業や活動は、秋津野塾の企画委員会で企画・立案され、必要に応じて各団体の代表が出席する全体会議で検討し承認します。それによって、ものごとにすぐに対応できる体制になっています。  地域に住む住民が問題を幅広く共有し、住民ひとりひとりが一地区一団体の住民であるととも に「地域住民」であるという自覚を深めます。 各団体が連携しながら、「地域力」を高めていこうとするところに、秋津野塾の特色であります。
 地域にかかわる人たちに共通しているのは、自立し、パートナーとして連携共同するすがたである。秋津野塾の三つ目の特色が、そこにある。地域の問題は、自分たち住民が決めるのだという姿勢である。
 いたずらに 行政をあてにするのではなく、住民ができることは住民がする。そして、必要に応じて、行政の支援・協力を仰ぐ。多くの住民の総意は、行政を動かす力になります。

地域づくりは 地域力の問題だ

 秋津野塾の活動は、1年を通じて展開されています。柱のひとつが、季節とともにおこなわれる行事・イベントであります。春の花まつりは、毎年3月下旬から4月上旬におこなわれる。子ども会からの発案 がきっかけでした。 花を植え育てるのは、花の会、秋津野コーラスの団員を中心とするボランティアグループである。毎年2月に入ると、河川敷にある夢東公園の園地を整備し、パンジーやビオラなどの四月に咲く花を植え込む。花の苗の費用は、秋津野塾が負担する。堤防の1部もふくめると、花を植える面積は「テニスコート10面ほどに相当する」広さになる。花の会の会員にはだれでもなれる、「各団体を通して呼びかければ、 またたくままに人が集まります。3月末から4月初めにかけて、子ども会が前年の秋に植えたチューリップが満開になり、花まつりの会場を彩る。
 八月の夏まつりは、盆踊りと夜店である。古くからこの地方に伝わってきた盆踊りは、こどもたちにふるさとの思い出を刻み、三世代が交流し、さらにもともとの住民と“新居住者”が交流する場となっている。 
 上秋津の1年を締めくくるイベントが、毎年12月に開かれる高尾山登山マラソンである。参加者は、高尾山の山道を一気に駆け上がり下ってくる “心臓破り”のコースだ。健脚の参加者が速さを競う一方で、老若男女が思い思いのペースで走ったり、歩いたりする種目もある。15回目になった2007年の大会には、約900人が参加 した。そのうち、4割近くは市外からの参加者でありました。
 各種団体が集まることでイベントが開催でき、動員態勢がスムーズにできるようになり、地域に目を向ける住民が増えていますし、地域にたいする住民の意識、協力態勢はかなり高くなってきました。このことは、ほかの地域に自慢ができる点です。
 

一年で倒産か?直売所の原型『きてら』

 秋の秋津野は、実りの秋である。ミカン、柿、イチジクなどの果物、キノコの種類も多く、山菜にみずみずしい野菜がある。はじけた紫色の皮の間から白く甘い蜜を滴らせるのは、アケビである。
 上秋津の中心部を抜けて龍神村方面へ約1.5キロメートル走ると、河原地区を流れる右会津川のほとりに、木の匂いがする建物が建っています。
 上秋津の秋津野産品直売所「きてら」である。「きて」は「来て」、語尾の「ら」は「〜してね(よ)」をあらわすこの地方の方言。つまり、多くの人に来てほしい、「千客万来」への願いが、店の名になった。
 「きてら」は、1999年(平成11年)5月に現在地よりも500メートルほど離れた千鉢地区の県道沿いに開設された。その年秋、紀南地方を会場に和歌山県が開いた南紀熊野体験博を機に、地元住民の間から特産品の直売所の開設を望む声があがったのがきっかけでありました。上秋津は、これまでも述べてきたように一年を通して温州ミカンを中心とした柑橘が収穫できる。ウメがある、スモモや柿もある。農家がふだん食べている野菜がある、花もある。地域活性化のひとつの方法が、直売所の開設でありました。
 「自分が作ったものに自分で値を付けて消費者に直接買って喜んでもらう。いいものを作らないと売れない時代、新鮮で安全な商品を安く買ってもらいたかった。
 地域づくりは、経済面がともなわないと長続きしないというのも現実だ。資金は有志31一人が出資をし、310万円が集まりました。農家だけではない、商業関係者、サラリーマン、いろいろな職業のひとたちが金を出し、出資者に名前を連ねた。出品する商品の値段は出荷者が決める。地域住民であれば、手数料の15%を納めれば、だれでも出品できるシステムをとった。販売には、女性たちがパートタイムで勤務することにした。
 店はプレハブで、広さは10坪もない、客が数人入っただけで店内はいっぱいになった。照明は、昼でも薄暗い。お世辞にも立派とは言えない建物。すべてが手探りで、すべてが手作りであった。
 直売所を構え、生産した果樹やウメなどにみずから値をつけ、自分たちの手で販売・運営していくのは、上秋津では初めての経験である。この地域でも、ほかの多くの地域がそうであるように農産物の販売は、農協をとおしておこなわれてきた。上秋津マスタープラン策定委員会が平成12年におこなった「農作物の販売額および販売方法」に関する調査でも、温州ミカンの販売は60.3%が「すべてあるいはほとんどが農協共販」である。中晩柑類は45.4%、青ウメは67.3%、七割近くが「農協共販」をとおしておこなわれている。「個人による出荷・販売は少数派」で、「卸売市場を媒介せず直接消費者などへ販売直販もわずか」なのが、現状でした。「きてら」の開設は、それまでの「やり方」とは違うもうひとつの方法を意味していました。
 平成11年の5月に開店した農産物直売所きてら。しかし、夏に向かうプレハブの店内は、日を追って持ち込まれる商品の種類や量が目に見えて減っていきました。当然、売り上げは伸びない。少ない売り上げは、パートの女性に支払うアルバイト代、土地の借地料、光熱費などに消えていきました。8月、9月と2か月連続の赤字になった。「売れるのかなぁ?」』と半信半疑の者が多かった。
 赤字経営のきてらを救ったのは、上秋津の特産を箱詰めにして歳暮用に売り出した「きてらセット」である。1セット3000円ほどのセット商品が、人気を呼ぶ。年度末、決算がまとまった。初年度の売り上げは、1000万円近くに達していた。関係者の間にあった不安が払拭された。何もしなければゼロ、行動すれば成果がある、かすかな自信が芽生えた。そのころを、笠松さんは次のようにふりかえる。「きてらセットが売れて客が増加した。人が増えれば商品も売れる、みんなの意識が変わっていくのがわかりました」。地域初の直売所は、農村によくも悪くも“さざ波”となって広がった。
 「きてらセット」は、毎年、春と夏と冬の三回売り出す商品で、きてらの“ドル箱”的な存在だ。注文をはがきやファックス、インターネットなどで受け付け、地元特産のミカンを中心に季節の果樹や加工品などを詰め合わせにして、申し込んだ消費者のもとに宅配便で届ける。マスコミが紹介したり口コミで広がり、売り上げは“倍々ゲーム”のように増え続ける。「自信」はやがて、「確信」に変わる。2003年度の売り上げは5000万円を超えた。
 2004年4月、きてらの店舗は移転、新築され、店内のスペースはそれまでの二倍に広がり、販売する商品が目立って増えた。
 旬の野菜や果物が、持ち込まれるようになった。盆石や民芸品も店頭に並ぶ。当初70人余りだった出荷者は、2004年1月現在150人、2009年には250人で3倍以上に増えた。高齢者は作ったものを出荷する、高齢者の生きがいの場にもなりつつあります。2006年には、法人化し、農業法人『きてら』として再スタート。2008年の売上げは11000万円となった。
 きてらを利用する客の7割以上は田辺市民、残りの約3割が市外からの来訪者と推定されている。最近は、紀南観光に訪れて立ち寄る県外ナンバーの車も増え、平成20年に当地区にオープンした秋津野ガルテンの相乗効果もあり、遠方から買いにくる消費者増え続けています。
 消費者との交流は、生産者に自分たちが見のがしていた価値について気づかせてくれる。「こんなものが、売り物になる」。再認識が、店頭に並ぶ商品の種類を多彩で、豊かにしていく。いま直売所で年間に扱う商品は、果物、野菜、花、漬物などの加工品を中心にざっと200種類にのぼります。商品のほとんどが、地元で作られているものだ。地産地消だ。営業は年中無休となり、時間は午前9時から午後4時半まで、週末ともなると大勢のひとが詰めかけてにぎわっています。